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伊集院光さんがラジオで話した「信仰」という言葉の考え方

信仰と言うと、宗教がすぐに浮かんでくる人は多いでしょう。ですが、宗教だけが信仰ではないと気づかされるツイートです。

お笑いタレントの伊集院光さんが、自身のラジオでお話されたという信仰という言葉について。これを聞いて、とても感銘を受けたというツイート主さん。

いったいどのような内容だったのでしょうか。

いつだったか、伊集院光さんがラジオで「信仰」というと構えて考えてしまうけど、たとえば多くの日本人は何かを踏み潰すときにそれがおにぎりだと分かるとすごく躊躇するだろう、信仰ってそういう(好悪や心象に根付いた)ものだと思う、と話しており、とても感銘を受けた。おにぎり、踏めないよなと。

※ツイート元より引用

●その回、見てました。 すごく印象深く、いまだに時々思い出し考える発言です。
 納得というと少し違うように思うけれど、限りなく納得に近い感情を持ちます。

●確かに!
 お米は勿論、食べ物踏めないですね…
 だからこそ、いただきます、ご馳走様でした、って言う言葉があるんだし、大事だと思います☺️

●ほんと、「言葉で迷いのある人間を導く」的な宗教と違って、言語化する前の感覚的なものなんですよね。
 トイレのスリッパでトイレ以外を歩き回れないとか。
 海の家とかで、どうせ汚れると分かっていても、裸足のままトイレ行けないとか

●こう…ロックな人が日本のステージでマリア像破壊しても意味無いけど、炊き立てホカホカご飯を地面にぶちまけたら悲鳴あがりますね。

●「信仰」の話では、ボクサーのバレンタインさんのお父様が、食事前の神へのお祈りを拒む彼に 「私の祈る神が理解できなくてもいい。ただ、ゴミを道にポイ捨てする時に心が少し痛むだろ?それが神だと思って、君もお祈りしてほしい。」 と伝えた話が「寛容」と「信仰」が同居していて1番好きです。

●心に静かに持つ価値観みたいな感じ?
 と受け取りました☺️💦

●食器が個人に従属するのも珍しいらしい。
 洋食器は同じ型が人数分あるけど飯茶碗、湯飲み、お箸はどんな家庭でも大抵「じぶんの」が決まっている。

●自分の手から零れ落ちたおにぎりなりアイス・キャンディーを、わざわざ踏む子どもは結構いる。あれって落したものを食品でなくす儀式なのかなと思う。なかなかに興味深い行動。

●古い米が出てきたけど心理的ハードルが高くて捨てられない💧
 なので新しい米に混ぜて食べてます💦
 ・・食べ物を粗末にするなんて罰当たり💢

●お米への信仰心は日本人はとても篤いと思います…
 「ご飯粒を残したら目が潰れるよ!」と言われて育った世代ですし😓おにぎり🍙なんて踏めません💦

●ぶどうを「穢れのない処女」に踏ませてワインにするところはありましたね。ここにもやはり信仰が介在してる様子。

●不法投棄やゴミのポイ捨て防止に、簡易的な鳥居を模したものを置くだけで ゴミを捨てる人が減るとかなんとか⛩

●お米にも1粒あたり7人は神様宿ってるし無理…😫

●お茶碗にご飯粒いっぱい残す人とか無理…。

●わたしも踏めない。
 そうか、わたしはお米教だったのか😅



少なくともお米教の日本人

信仰という言葉の意味自体は、実は我々の世界の中でどこかにある気持ちだとかそういったものがそれにあたると考えると誰しもが持っているものなんだなと思いました。

ひとつの思想に皆が寄り添って考えるのも信仰のひとつではありますが、それだけではないと。中には過激なものもあったりしますから、その言葉だけだと警戒してしまいがち。

自分の中で持っている思想とか信じるものがまさに自分の中の信仰なんですね。リプにもなるほどと思うような内容がたくさん。見方を変えればこうも印象が変わりますね!

おにぎりひとつでも国や人種が変われば大きく考え方が違ってきそうです。これが日本人のお米教による信仰なのでしょうw

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